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Takeshi Kakeda (tkskkd)
kakeda at zensow.jp
Japan - Ehime - Matsuyama

分離→統合を進めて全体性を取り戻すいきいきデザイナー&プラクティショナー&エヴァンジェリスト
アジャイル(22年)、パタン・ランゲージ(13年)、パーマカルチャー(15年)、ビオトープガーデニング(10年)、ウルトラ&トレイルラン、メンタルモデル探求、乱読書、生態系保全、心身一如、自分、他者、すべての生物の「いのちを活かす」ための活動をしています。 個人やチームのアジャイルメンタリング&コンサルティング、メンタルモデル紐解き、個人・チームの心身の健康カイゼン支援、などなど。

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11年目の3.11、そしてウクライナ侵攻で、気づいたこと

世界の問題の根っこはなんだろう?どうすればよいのだろう?に思いを馳せる

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3.11、自然災害と持続不可能な技術のダンス

2011年3月11日、僕は約1年前の2010年に東京から愛媛に移住していた。東京の友人、実家の両親や弟たちが体験した震災の地震の揺れも、避難も、僕は体験していない。四国からは圧倒的な津波の映像しか見えなかった。

その年の7月に、岩手の陸前高田の震災ボランティアに参加した。岩手県は両親の実家があり親戚も大勢いる。陸前高田は子供の頃に何度か海水浴にいったことがあった。

親戚の家は、大半は内陸側だったので無事だったが、気仙沼在住の従姉妹が一時期行方不明になった。当時Google Person Finderを使って避難所の名簿を片っ端から検索して、ようやく従姉妹の無事と居所を突き止めたことを思い出す。

ボランティアセンターのある遠野市から陸前高田へと向かうバスに乗って被災地へ向かった。同じような田舎の田園風景が突如一変したのが強烈に印象残っている。陸前高田の街に出てみると見渡す限り瓦礫の山、何も残っていない風景に衝撃を受けた。目前の景色は数ヶ月前に見た広島の原爆爆心地の写真と同じだった。

2011年はちょうどパーマカルチャーを正式に学び始めた年でもある。今はなき淡河の古民家を使ったパーマカルチャー関西のセンターで、持続可能な生活をデザインするパーマカルチャーを、持続不可能な原発から生じた見えない放射性物質が広がる震災後の時期に学んでいたことが強烈に印象に残っている。

当時を思い返してみると、猛烈な自然災害と持続不可能な技術がダンスを踊った結果、奇跡的に間一髪、東日本壊滅を乗り越えられた、と感じる。

ウクライナ侵攻、人の生存本能と持続不可能な技術のダンス

そして2022年、今僕は生存本能が駆動する人の内的世界の自己受容〜自己統合に向かうためのメンタルモデルをはじめとするHMテクノロジーを学んでいる。

その最中にウクライナ侵攻が起きた。この事件は「ロシアが悪」という単純な図式では済まない、それまで何十年も積み重ねられた人々の恐怖と不安に駆動された生存本能の連鎖が引き起こした、二国間の問題だけではない、世界中を巻き込んだ不本意な現実なのなもしれない。

一昨年から続く新型コロナウイルスの騒動も含め、人の不安や恐怖がいかに人間社会を動乱に向かわせるかを同時代で目の当たりにしている。

11年前のパーマカルチャーと東日本大震災とそれに続く原発事故、そして今のHMテクノロジーとウクライナ侵攻、そこから続く様々な悲劇の数々。どちらの場合も、自分がまさに今学んでいること(持続可能なデザイン、人の内的世界の統合)が、世界に欠落している結果として生み出された出来事という、まったく同じ構造に改めて驚かされた。

先日のロシアの原発への攻撃などは、恐怖に駆動された生存本能と、持続不可能なテクノロジーがダンスを踊った結果としての考えうる最悪のケースが現実に起こりうるということが明らかになったといえる。

「ない」ではなく「ある」に気づくことが未来を作るという仮説

これまで、現代社会は技術革新で立ち塞がる問題を解決しようと必死になってきた。しかしこの現状を引き起こしている根っこは、人の「〜がない」という欠乏の信念から生まれる不安、恐怖や、それに基づくさまざまな人間の行動ではないだろうか。

この「〜がない」と言う信念を「〜はある」に変えていかないと、この悲劇の連鎖は止まらない気がしている。

たとえば、パーマカルチャーの提唱者の一人であるビル・モリソンは「地球を森にする」ことをビジョンとしていた。モリソンによれば、森は畑よりもずっと安定して食料を生産してくれる環境だという。アグロフォレストリーも類似する概念だ。

しかし人は森を切り開いて木材としてしか見ておらず、多くは森よりも生産性の低い畑に変えてしまった。地球は人間が必要とするものを与えてくれる潜在力があるのに、人間がそれを使いこなせていないが故、現在の文明が様々な問題にぶつかっていると考えることができる。

『ザ・メンタルモデル』由佐美加子さんは、人の「〜がない」という無自覚な信念が、その人の周りの不本意な現実を作り出しているという仮説に立っている。

「ありのままでは価値がない」「ありのままでは愛されない」「ありのままの自分は何かが足りない」「自分はひとりぼっち」という信念が人の根っこにあり、その結果として「ない」ものをなんとか埋めようとしたり、「ない」ことを諦めて行動しているが、最終的には「やっぱり〜がない」という不本意な現実が生まれてしまうということだ。

今まさにおきているウクライナ侵攻も、それ以前の時代からの「わかってもらえない」「わかりあえない」「力が足りない」「安心がない」といった不安と恐怖に各国が駆動された結果として現れていると感じざるを得ない。

これまでの技術とは「「ない」ものを「ある」に変える」という目的でひたすら革新されてきた気がしている。しかし、本当に必要な技術革新とは「「ある」のに「ない」としていることを「ある」と気づかせる」ためのものではないだろうか。

私たちが「〜はある」と気づけば、「〜はある」という信念に基づいて行動していけば、「ないものにしていたけどある感情」を感じることができれば、きっと「〜はある」という現実が作り出される、そんな未来を作りたいと思った、11年目の3.11だった。

NVCとパーマカルチャーの繋がりの真の意味

ニーズの満たし合い、生態系、自己への繋がり

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NVCの前提

由佐 美加子さんのAuthentic LeadershipでNVCの前提をじっくり見る機会があった。

バージョンは違うがこの前提の8番を特にみていて気づいたことがある。

http://nvc-japan.net/material/key_assumptions_and_intentions_of_nvc/

  1. 人類は共生を通してニーズを満たす:私たちは多くのニーズを他者との関わり合いを通して、または自然とのつながりのなかで満たしますが、いくつかのニーズは主に自分自身との関係性の質を深みを通して満たされ、さらにいくつかは人生のスピリチュアルな次元と関わっています。他の人のニーズが満たされないとき、自分のいくつかのニーズもまた、満たされないことがあるでしょう。

この文章は「人類が共生を通してニーズを満たす」とあるが、実は生態系の共生関係、つまりお互いの生物が生かし生かされる関係そのものだったということに気づいた。生態系の生物間の関係性を、人間という種に照らし合わせてみた時に「ニーズを満たしあう」ということになる。

パーマカルチャーの倫理

実はこのことは、パーマカルチャーの倫理とも非常に近しい。パーマカルチャーの4つの倫理は次のようなものだ。

https://pccj.jp/permaculture/definition/

  • 自己への配慮
  • 地球に対する配慮
  • 人に対する配慮
  • 余剰物の共有

自己への配慮は、NVCの自己共感に基づくニーズへの意識の向け方に等しい。まず自分自身のニーズに自覚的になって気を配ることがスタートだからだ。

人に対する配慮はまさに人が持つ基本的ニーズそのものに意識を向けることだ。人が持つ基本的ニーズとは人類共通のものであり、配慮し大切に扱うことは重要な要素だ。

そして余剰物の共有は、自分のニーズを満たして余ったものを共有するということだ。ニーズが満たされた状態で物を溜め込むのでなく、余剰物をニーズが満たされていない人々に分かち合うという態度が重要だ。

そして人に対してだけでなく、地球という星のすべての存在を慈しむという観点がパーマカルチャーでは大事にされる。

NVCとパーマカルチャーの繋がり

パーマカルチャーは、生態系を含めたエネルギーを循環させる繋がりをデザインすることで、持続可能な暮らしや社会を実現しようとするデザイン体系だ。生態系の繋がりとは生物同士のニーズの満たしあいであり、人はそれぞれのニーズを自覚し満たしながら、他者のニーズにも答えていく関係性こそが、豊かな生態系と同じであるということだ。

ここ数年、ソーヤー海さんが、パーマカルチャーの文脈からNVCを伝えているのに気づいた。しかしなぜパーマカルチャーとNVCが繋がっているのかがピンときていなかった。

パーマカルチャー的には人の集団(=コミュニティ)もデザイン対象となり、その流れでNVCが関連するのだと漠然と考えていた。しかし、今回のNVCの前提を理解して、本質的にはニーズの満たし合いとは、人と人とのエネルギー循環であり、生態系を意図的に生み出すこととなんら変わりはないことがよくわかった。

スタートは自己共感から

そして、何から始めればいいのかという観点では、自己への配慮=自己共感がスタートとなる。

多くの人は、無自覚に自分を責め続けている。「xxxできない自分はダメだ」「価値を出さないと存在意義はない」「誰にも理解されない」「愛されない自分はダメだ」というように無自覚に自己分離を起こしている。このような状態だと分離の奥に潜んでいる自分の本当のニーズに繋がれていない場合が多い。

自己への配慮・自己共感を実現するには、NVCの自己共感、そして自己分離している自身に気づいて、それを癒していくというプロセスが重要となる。それの一つの方法が由佐さんのメンタルモデルへと繋がる。

今回のNVCの前提を読んで、NVC、パーマカルチャー、メンタルモデルが強く結びついていることに気づけて本当によかった。

焚き火とWeb3とDAOと雑談と

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先週の土曜は松山は今年一番の冷え込み。

sozo@MYJの友人たちと畑に行って焚き火にあたりながらweb3、DAOなどのブロックチェーンをベースとした技術がもたらす未来について語っていた。NFT投資とかは興味はないが、個人がこういうプラットフォーム上で自由に経済活動が行える未来には可能性を持ち始めた。

この日は風が強く、雨も降っておらず木が乾燥していたので火つきが良かった。 低音にもかかわらずあっという間にものすごい火柱が上がって炎の制御が難しい。 風避けを古いトタンで作ってなんとか凌いだ。

しばらくすると雪が舞ってきた。焚き火の前にいても足先が冷えて寒かった。

辺りにはアメリカセンダングサやセイタカアワダチソウの枯れ草が至る所にある。 こいつらは適度に木質化していて乾燥しており焚き付けにもってこいだった。

僕らが外来種とか雑草とか名前づけして忌み嫌う草にも適した役割がある。 それを生かし切るのが大事ではないかという気づきが合った。

焚き火の前でポツポツ話しているのが楽しい。今度焚き火を移しながら雑談を録画しようという話になった。 さて、どういうことになるかな??

戻って早速MetamaskインストールしたりETH買ったりMirror.xyzにアカウント作ってみた。

Web3勉強しようっと!

トンガの火山の噴火のエネルギーがどのくらいなのか調べてみた

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(https://youtu.be/xRxlqD0e2T0 より)

トンガの火山(フンガ・トンガ=フンガ・ハアパイ火山)の位置が、Googleマップにのっていました。 もともとは2つの島だったところが、数年前に爆発して繋がってたみたいですね。

https://www.google.com/maps/@/data=!4m4!15m3!1m1!1s%2Fg%2F11rn6h7j6y!2e1?hl=ja

火山噴火のエネルギーってどのくらい?

地球を生体だと考えると、火山噴火は怒ってプンスカしてるくらいなんでしょうか?地震の方が放出されてるエネルギー多そうですね。そう思ってちょっと調べてみたら、実は噴火も放出エネルギーが高いそうです。

今回のトンガの噴火はどの程度かと調べてみたら、火山爆発指数(VEI)なるものがあることを知りました。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E5%B1%B1%E7%88%86%E7%99%BA%E6%8C%87%E6%95%B0

専門家の推測によると、今回の噴火はVEI 5〜6程度ではないか?とのこと。

https://www.asahi.com/articles/ASQ1J6399Q1JULBJ004.html

火山噴火のエネルギー量の見積もりの質問への回答をみると、1995年の雲仙普賢岳の噴火のエネルギーは、マグニチュード8.5–6程度だったそうです。

http://www.kazan.or.jp/J/QA/topic/topic87.html

雲仙岳はVEI 3だそうなので、今回のトンガの噴火のVEIが5–6だとすると、マグニチュード8.5以上は間違いないですね。

エネルギーの比較をみると、VEI 6だったピナトゥボ山の噴火は、東日本大震災(マグニチュード9 )よりも放出エネルギーが上(5倍?)だそうです。桁が大きすぎてよくわかりませんが、とてつもなく凄いということだけ理解できました。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%82%AE%E3%83%BC%E3%81%AE%E6%AF%94%E8%BC%...

気候変動も心配

現地とだいぶ離れているのに、高知で船が転覆するほど凄いエネルギー。距離が離れていても気圧変化ものすごい。イライラしてると周囲の人達に影響がいくあの感じに似てますね。

今回の噴火による噴煙が成層圏に到達した結果として一時的な気候変動(寒冷化)もありえるそうです。

https://nordot.app/855701923191783424?c=62479058578587648

https://news.yahoo.co.jp/articles/797630b0253c207dde0eeccf690f74b2516ebdf8

「温暖化」に対しての「寒冷化」でバランス取れたりしないの?という気もしないでもないですが、そんな都合よくいくわけない。これが新たな気候変動の引き金にならないといいですが。もちろん今後の噴火も気になります。

ほんと、地球は一つで全部繋がっているんだなと実感します。

だいぶガイアかあちゃん、ご機嫌斜めなのかもしれないですね。もっと謙虚に自然に則って生きよう。。。

畑における焚き火台作りから学んだこと

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雑談イベントをやった

@kyon_mmさんとTwitterでやりとりをして雑談しようといってたら、いつの間にか雑談イベントになっていましたw

https://alexander-study.connpass.com/event/235363/

当日のレポートはイベント終了後すぐにaki-mさんがあげてくれています。

https://aki-m.hatenadiary.com/entry/2022/01/02/223734

ここでは、その時話した焚き火台の話を少し補足しておきます。

焚き火台を作った話

5-6年前から、毎週友人たちと借りている畑に行って農作業をしています。一昨年くらいから冬は農作業が少ないので、石を拾って作ったカマドで、そのあたりに落ちてる枝などを燃料に焚き火をし、焼き芋作ったりお湯を沸かしてコーヒーを作って飲むという遊びをするようになりました。

これまで石を組んだカマドの上にヤカンを置いたり、焼き網をのせてヤカンを置いたりしていたのですが、なかなか安定しませんでした。

「囲炉裏の上にある自在鉤みたいのに吊るしたいよねー」という話は以前からしていて、竹を三本足で組み合わせて支柱を作って上から吊るしたらどうか?というアイデアもありましたが、実現していませんでした。

もちろん材を買ってきて作ったり、そもそも焚き火台を買ってくるという選択肢もあるのですが、この畑での農作業は「できるだけお金をかけないで、そこにあるもので創意工夫しよう」という暗黙の価値観があり、安易に購入するという選択肢はとってきませんでした。

昨年末に畑で焚き火していた時に、友人がInstagramの写真を見せてくれて「こういうのいいですよね」と見せてくれました。

「Y字の支柱を2本立ててそこの間に一本枝を通す」ただそれだけの構造ですが、そこにこれまでに解消されていなかった課題(水平をとる、安定させる、簡単に作る)が一気に解決できることに気づいたのでした。

ちょうど近くに落ちていた木の枝を切ってY字の支柱をこしらえて、カマドの横に立てて、これまた落ちていた真っ直ぐな枝を適度な長さに切って、それを支柱に渡してヤカンをぶら下げ高さを調整する、そんなことをもの5〜10分くらいやっていて見事ヤカンをぶら下げて下から火を起こしお湯を沸かすことに成功しました。

友人たちと、素早く、うまく実現できたことに、ただただ喜び、興奮していました。

ここで何が起きていたのか?

もちろん、市販の焚き火台を買ってきたらこんな試行錯誤をする必要もないし、最初からお手本を見ながら作っていたらずっと早くできたのでしょう。

私たちがここで行ってきたことは

  • (1) その場にある材料でなんとかすること
  • (2) 試行錯誤をして改良を重ねること
  • (3) 解消できない課題を特定すること
  • (4) 外部の知恵を借りてくること
  • (5) 知恵を元に工夫して課題を一気に飛び越えること

というプロセスでした。

(1)や(2)は、レヴィ・ストロースの言うところのブリコラージュそのものです。

ブリコラージュ(Bricolage)は、「寄せ集めて自分で作る」「ものを自分で修繕する」こと。「器用仕事」とも訳される[1]。元来はフランス語で、「繕う」「ごまかす」を意味するフランス語の動詞 “bricoler” に由来する。 (Wikipediaより)

借りている畑の周辺には木や竹や石が転がっています。私たちはそれらを生かして何ができるか?を常に考えています。今回はそれだけではなかなか越えられない状況でした。試行錯誤はしているのですが「何か足りない」状況でした。足りなかったのは「自分達にはない現状の延長線上ではない発想」です。

(3),(4),(5)は、クリストファー・アレグザンダーのパタン・ランゲージで紹介されているパタンを採用して現場でイノベーションを起こしたのと同義です。(3)はフォース、(4)がパタン、(5)がパタンを仮説として現場で実装した結果です。

友人がInstagramの写真を眺めていて「これは?」と見つけた写真が、まさに「パタン(パターン)」だったのです。つまり特定の状況下で繰り返される問題の解決方法です。

この話をしている間に、Discord上でこんなコメントがありました。

森のコンテキストと人がつながった

そうです、まさに、森(というか隣に大きな木が生えている畑なんですが)という環境と、そこにいる私たちが関わりを持ってひとつの調和のとれた生活(快適にお湯が沸かせる環境としての焚き火台)が生まれた瞬間でした。

この調和は、それまでの試行錯誤のプロセス、つまり少しづつ自分たちで焚き火台を作り工夫してきた上に積み重なり生まれました。

モノと環境の関係性

私たちの世界には、モノやプロダクトが溢れています。こんな手間暇かけずとも焚き火を楽しむことはできるし、もっと時間を短縮して楽しむことができます。

しかし、市販品の焚き台を使ってお湯を沸かす人たちは、今回の私たちほどの喜びや達成感はきっと得られないでしょう。なぜなら、この喜びや興奮は試行錯誤の体験(プロセス)を経るからこそ得られるからです。「手っ取り早く成果を得る」ことは結果についての体験を得ることはできますが、プロセスによる体験は得ることができません。

また、焚き火台を買ってきて、その場に置いて焚き火をしてお湯を沸かしたとして、その場所と焚き火をしている人の間の調和が取れていると言えるのでしょうか?環境に完成品を持ち込んで使うということは、環境と人の関わりが急激な変化を伴って変わるということです。

金属の焚き火台を持ってきて火を起こしお湯を沸かすのは一見普通のことです。しかし、よくよく考えてみると、金属の製品というその場にない存在がこつ然と現れて、人がその道具を使って目的を達成するという状況が生まれます。金属の製品と環境との関係は、調和ではなく差異が生まれ、その時点においては不調和を生み出しているとも言えるでしょう。

一方、石を組んで釜戸を作り枝を組み合わせて使ってヤカンを吊るすこの仕組みは、その場にあるものから作られていて馴染んでおり環境と調和しています。この感覚は微妙なものかもしれませんが、両者を比べてみると誰でも気づくものだと思います。

もちろん、その場と不調和であっても「目的が達成できればそれでいい」という観点であればまったく問題ありません。むしろ現代社会はそういった目的論に支配されています。目的論自体も否定されるべきものではありませんが、幅を利かせすぎているのが不調和の原因だと感じています。

このバランスを欠いていると、目的の名の下に全てのプロセスをすっ飛ばすことで、貴重な体験を失うことになります。これは『ジョジョの奇妙な冒険』の第五部、キングクリムゾンのスタンド能力と同じです。

人間の喜びとは結果ではなくそこに向かうプロセスにあるという立場に立つと、目的を達成するためにプロセスを飛ばすという行為は、環境との間で繰り広げる試行錯誤を経た調和のプロセス、そこで得られたはずの体験、学び、喜びを失ってしまうのかもしれません。

アジャイルの定義より大事なこと

雑談の元のテーマの話とつなげるのであれば、理想的な「アジャイル」の条件や定義にかなっているかそうでないかは現場においては問題ではなく、大事なのは「今、その状況で調和が生まれているのか?不調和を特定してそこに調和を見出そうとしているか」という点ではないでしょうか。

「外部からの新たな視点・発想」というのも非常に大事です。それが「パターン」であり「プラクティス」です。しかし、それらの外部の新しい視点や発想が、あるコンテキストにピッタリはまるのかはやってみないとわかりません。あくまでも仮説としてのアイデアです。

現場の人が、自分達が感じ取った環境情報や、外部から取り入れた新たな視点をうまく使って、ブリコラージュしていく。その繰り返し自体に価値があり、喜びがあり、最終的に成果に結びつくのではないかと思います。仮に成果に繋がらないとしても、個人にその体験があれば人生の糧となり、人生の別の文脈に生きると考えれば、短期的な成功とか失敗などは、問題ではなくなります。

何が起きてもいい、快も不快も体験すればいい、常に体験から学べばいい」という態度があれば、恐れから解放され、本当に自由に行動できます。このことこそが、真の意味でのアジリティではないかと考えるのです。

ささいな焚き火台の話でしたが、自分にとっては重要な話なので補足しておきました。

植物の存在、そして完全性

素足で歩く。

小石が落ちていると痛い、当たり前のこと。

アスファルトが荒れていると痛い、当たり前のこと。

地面に草が生えていると、途端にそこは楽園になる。

足裏と草花が触れる時、そこには優しさがある。

ああ、そこに生えていてくれてありがとう、と心から安堵する。

草花はどんなものであれ、土を覆い尽くして、土壌を守り、動物たちに優しい絨毯を提供し、自らの身体を差し出して、動物たちの生きる糧となる。朽ちた体は再び土に戻り、次の世代を育む糧となる。

その存在は完璧で無駄がない。

いつから雑草という名が生まれ、人は草花から離れてしまったのだろう?忌み嫌われ取り除かれる存在となったのだろう?

その完全性に気づかない人の曇った眼差しは、自分自身の完全性にも気づかないままなのかもしれない。

『ザ・メンタルモデルワークブック』の読書会をやってみた (第0回)

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12/16に『ザ・メンタルモデルワークブック』の読書会をやってみました。

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10人の参加者が集まりDiscordサーバー上で「まえがき」と「あとがき」を皆で音読してこの本の中身について味わいました。事前に一緒にやろうよと声をかけておいたチブさんが場をいろいろ観てくれていたのでだいぶ気楽にできました。ありがとう!

まだ具体的ワークははじめて無いのでモヤモヤもある方もいますが、そのもやもやを感じながら楽しんでいきましょう!

その2週間後の12/29に、当日参加できなかった方、新しく参加した方で補講(同じ内容をもう一度)をやってみました。

少人数ならではのディープな話ができました。少ないのもいいなー。

 

本題のワークは2022年からです。今からでもぜひ一緒にやりましょう。

月1の読書会ですが、補講という形で2回やってもいいじゃない!という新たな気づきがありました。 来年、ゆるゆると始めていきますので、ご興味のある方は、ぜひこちらまでー!

https://thementalmodel.connpass.com/

分離から統合に至る2つの内省アプローチ〜XPとザ・メンタルモデル

自分を観ると、世界が変わる、かもしれない!?

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この一年くらい、『ザ・メンタルモデル』(以下、TMM)を学んでいました。その流れでザ・メンタルモデル・ワークブック(TMMW)の読書会を始めることにしたのですが、読書会に先立ってなぜやるのかの話をもう少ししておきます。

Kent Beckの内省〜インテグリティの実現

自己内省というとすぐに思い出すのは、『エクストリーム・プログラミング』(XP本)のKent Beckのことです。 KentはXP本の中で内面の探求について言及しており、私は数年前にそのことに気づいて非常に大きな影響を受けてきました。

https://www.slideshare.net/kkd/about-annotatedbibliographyinx-pver3

KentはXP本の中で次のように書いています。

私はプログラマーの生活をよくするためにXPを体系化した。体系化しているうちに、XPは世界における私のあり方を決めるものになった。けれどもそれは、私自身の価値について考えさせ、それに合わせた行動を求めるようなあり方だ。最初に私自身を改善しなければ、何も改善されない。そのことを私は発見した。

XPの鍵は誠実性(integrity)だ。本当の価値と調和のとれた行動をすることだ。誠実性を目標にした途端、私は実際の自分の価値が世界から持っていると思われたい自分の価値ではないことに気づいた。この5年間は、実際の自分の価値を自分の持ちたい価値に変える旅だった。

ここで、Kentは「自分自信を改善しなければ、何も改善されない」と述べています。ここでの「改善」は何を指すかというと「 実際の自分の価値を自分の持ちたい価値に変える」ということです。そして「価値にあった行動に変えていく」ことをも意味しています。

Kentは「実際の自分の価値を、自分が持ちたいと価値に変える」というアプローチを行いました。図にしてみると、以下のような感じです。

 

自分の価値が、自分が持ちたいと思う価値ではない場合ギャップが生まれます。ここで言行不一致が生じることになります。

言行不一致の状態はDoingの状態です。自分が本当に大事ににしていることは違うのに、「こうするべき」行動を一所懸命行おうとします。しかしどこかでほころびが見え隠れします。言ってることと、やってることのズレがどうしても生じてきます。

言行不一致について無自覚な場合は単にほころびが見え隠れするだけですが、自覚的になると「自分自信を欺いている」に気づいてしまうのが苦しい点です。

「本当はこっちを大事にしたいのに、こうせざるを得ない」

「本当はこう行動したいのに、自分は実は別の価値を大事にしている」

このように、価値と行動の不一致は、自己を引き裂き分離させてしまいます。

一方、自分の価値を、自分が持ちたいと思う価値に書き換える、あるいは行動を価値に沿った行動に帰ることで、言行一致になり調和が生まれます。これがインテグリティです。

言行一致とはBeingの状態です。あり方とふるまいに一貫性があります。ブレはなく自分の中でのバランスもとれ調和が生まれます。自己の価値と行動が統合されています。

 

TMMの内省〜無意識のパターンを知って解放される

一方、TMMでは「自分の無自覚な信念(触れたくない痛みの回避行動)が作る構造を明らかにする」ことで、無自覚に行っていた回避行動を意識化して変容が可能であるとしています。これは「価値を変える」「価値にあった行動にかえる」というアプローチとは若干異なります。もう少し詳しく説明しましょう。

TMMでは、「痛みを回避するために作られた無自覚な信念(メンタルモデル)を元に生存適合OSが駆動している回避行動」が不本意な現実を作るとしています。

ここで言う痛みとは「ありのままの自分では受け入れられない」というものを起点としますが、ポイントは人それぞれで異なります。これについてはスクフェス大阪でやったワークの中で説明したメンタルモデルの類型に詳しいです。

この説明だけだとわかりにくいので例を出すと、何らかの原因で「自分の存在を否定される」経験をされた人が「ありのままの自分は価値はない」という信念を作り出します。そして無意識に「価値がある自分になる」ように駆り立ててらます。ここでは「価値がある自分になる」という行動が回避行動となります。

 

ここでポイントとなるのは「ありのままの自分は価値がない」という信念です。自分を痛みを回避し「痛みをなかったことにする」ために自分自信に言い聞かせているマントラです。TMMの用語でこのような状態を「自己分離している」と呼びます。

先の価値と行動の分離とは異なり、無意識にあるもの(痛み)をなかったことにしている、という意味での分離です。

この信念に基づく行動は一貫性があり合理的であり「痛みを回避する」という目的のために機能しています。この仕組みは生存するために自我が無意識に構築したものなので、そのままでは行動の選択の余地がありません

この信念が強固なまま行動したとしても不本意さはなくならず、結局痛みが再生される。上記の例であれば「価値がある自分になろうとする」行動だけしていますが、どんなに価値ある自分になろうとしても最終的には「自分には価値がない」に戻ってきます。ここに「不本意さ」が残り続けます。

顕在意識では「不本意(=残念)」なことが起きており、それをなんとかしたいと思っていますが、外部のアクションでを変えようと思っても変えることはできません。なぜなら無意識的には一貫性のある合理的構造で動いているので、そのパターンから離れることができないからです。そのため「なんで、いつもこうなっちゃうかなぁ」という不本意さが繰り返されます。

一方、TMMの仮説としては「自分の不本意な現実が作られる構造を知ることによって、生存適合OSという存在を認めつつ、不快感を感じたり、意識的に行動を変えたりすることで徐々に変容していく」という理解です。

 

自分の生存適合OSを理解していれば、自分のメンタルモデルにそぐわない行動(痛みに向き合う行動)を意識的に行うこともできます。ただ「痛み」自体は消えません。この不快な感じをなかったことにするのではなく感じることが重要です。そうすることで、それまで「痛みをひたすら回避」してきた生存適合OSの役割が薄れていき徐々に効力を失っていくとされています。

もちろん引き続き痛みを回避する生存適合OSのお世話になることもできます。決定的に違うのは行動の選択権は自分の意識下にあるという点です。

Kent Beckのアプローチと、TMMのアプローチは「自己の内面を探求する」「自己分離から統合へ向かう」という意味では似ています。

強いて違いを述べるなら「あるものを受容する」ということです。自分の中にあるものを無きものにしようとすると自己分離がおきます。「あるものはある」とただ認めるだけ自己受容をするだけです。

 

 

ここで言う「あるもの」とは、自分の嫌な部分や、なかったことにしたい痛みなど、自分から切り離された部分です。切り離された自分を統合することがTMMで最終的に実現したい自己統合です。

無理に「信念を書き換える」ということでもなく、自分を知って受容するだけですが、それだけのことが、実は人にとって一番大きな変化なのかもしれません。

自分を知ることで、世界が変わる、かもしれない!?

個人的にTMMが面白いと思う点は「スピリチュアル的な要素が少ない」という点です。これは由佐さんの経歴が「学習する組織」「システム思考」をベースとした組織開発にあるためかもしれません。システムの構造を見抜き、レバレッジポイントを見極めて、アクションを起こすという感覚に近いと感じます。

また、自分の内的構造を知ることは発見でもあり喜びでもあります。「あー、こういう構造になっていたのか。それじゃぁ、この行動しても仕方ないよね」というように、自分の無意識の行動の合理性に気づくことで、逆に自分を慈しむことができます。

自分の内的世界を観ることは「生きやすさ」に繋がり「行動の可能性を広げる」と感じています。

Kentはまず最初に自分の内面をみつめることで価値と行動の一貫性をつくるインテグリティの大事さを教えてくれました。TMMは内面を観て自己受容することで分離を統合に近づけ、自己を慈しみ生きやすくなることを教えてくれました。

そして、両者ともに自分の内的世界に目を向けることによって、結果として外的世界の変化に繋がるという点も似ています。

Kent Beckは「Social change starts with you.」という言葉を残しました。

私は上記の言葉を次のように書き直したいと思います。

Social change starts with understanding your inner world.

(ソーシャルチェンジは自分の内的世界を知ることで始まる)

まぁ、本当に変わるかはわかりませんがw、自分を知るのは楽しいですよ。あまり過度な期待や、深刻にならずに自分を知ることを目的に、一緒にこの仮説を探求したい人は、どうぞ↓まで!

https://thementalmodel.connpass.com/

もち麦グラノラふたたび

イオンの棚から消えた小川生薬もち麦グラノーラを直販でゲットすることにした。

これで棚にあるかどうか一喜一憂しなくて良くなったので平和になった。あとはメーカーが製造中止しないことを祈るのみ。

僕たちのSOZO活動 2021.12.09

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今日は、週に一度の友人たちとの畑作業。

拾った石で作ったかまどで、焼き芋を作るのがこの季節の楽しみ。

今年は、作ってたさつまいもが何者かに盗らてしまって買ってこざるを得ないが、

廃材や収穫した作物の茎を燃やして、炭を作りそこにサツマイモを直接入れる。

その横でウッドガスストーブで火をおこし、自宅で不要になったヤカンに水を入れお湯を沸かす。

その間に、農作業を行っておく。火の番担当が頃合いを見計らって焼き芋をチェック。

「焼き芋、焼けたよ〜」と火の番担当が教えてくれた。

先週、火加減間違えて炭化してしまったサツマイモだが、

今回は火加減を調整して、食べごろに焼けた。

畑の横に生えていた木が工事で伐採されたので、

その丸太を持ってきて簡易的にこしらえたベンチに座りながら、サツマイモをほうばる。

火力が少なく手こずっていたお湯も沸いたので

インスタントコーヒーを淹れる。

煙に気をつけながらベンチに座り、

コーヒーを飲みながら,メタバースの生み出す未来について語った。

「今度は、転がってる剪定枝を組み合わせて、三本脚の自在鉤もどき作ってヤカンぶら下げようか?」

「いやいや、竹をそのまま使ったほうがいいんじゃない?」

「やっぱり、かまどは2つあったほうが便利だよね」

「石と石の間に泥をつめたらより固定されるのでは?」

「泥で高さを合わせれば、水平取りやすいのでは?」

そこにある材料、そこにある道具で、

自分たちがよりよくできることはなにか?何ができるか?を考える。

モノを買ってくれば、そこで終わり、用は足りる。

時間と引き換えに失うのは、自分で考える・試行錯誤する・工夫するという体験

結果が「うまくいく」、「うまくいかない」は関係ない。

うまくいけばよろこび、うまくいかなければ工夫して次を試す、

ただただ、それだけの体験。

自由に話し、自由に考え、自由に試す、これが僕たちのSOZO活動

ザ・メンタルモデル・ワークブックの読書会をはじめます

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なにするの?

『ザ・メンタルモデル・ワークブック』(略称TMMW)の読書会をはじめます。

ザ・メンタルモデルワークブック(TMMW)読書会

この本は、『ザ・メンタルモデル』(略称 TMM)で解説されている、痛みを回避するために出来上がった無自覚な信念である「メンタルモデル」に先立ち、「自分を観る」ことを行って「自己分離から統合」に向かう考え方・観かたをワークを通じて学びます。

いきなり「痛み、不安、恐れ」を観るのは誰しも抵抗感があります。その抵抗感を少しづつ取り去っていき、自分を観る ステップを提供してくれるのが、TMMWです。

ひとつずつ本書のワークをすすめていくことによって、「自分を丁寧に観る」ことができ、その結果として、仕事、家庭を含めたその人の人生が豊かになる、入り口になると私は信じています。

 

本について

TMMWのワークの内容は、もともとは著者の由佐さん、中村さんが提供しているJourney to the Source(JTS) 統合プログラムの一貫でした。私は昨年からこのJTSを受講し、本書のワークを数ヶ月かけて一通り実際に体験し、その場で「自分を観る」ことで「自己分離」に気づき、それを統合にむけ方向づけすることを体感しました。

TMMWは、JTSという有償プログラムの内容を一冊の本にまとめたという点でも大きな価値がありますし、著者の二人はその内容を多くの人に体験してほしいという願いがありこのような取り組みをされたそうです。

著者の中村さんに連絡をして、読書会について相談をして開催することにしました。

なぜやるのか?

ここで少し「なぜ本書の読書会を主催するのか」について簡単に述べておきます。

そもそもTWW(『ザ・メンタルモデル』)に興味を持ったのは、自分が直面期(自己分離している人生でいろいろ極まって困難にぶつかる時期)に移行して、一度自分のそれまでのものが瓦解していきました。そこから、外に目を向けるのでなく、内に目を向けることで囚われを少しづつ手放しながら再構築している段階でした。

購入して一旦積ん読しておいたTMMをふとしたきっかけで読んでみると、それまで薄々気づいていた事が書いてありました。

あっ!自分が辿ってきたのは、ここで言ってる直面期→自己統合期だったのかもしれない

と感じたのです。

しばらく、TMMを人にすすめることをしていたのですが、由佐さんの講座があると知って、その答え合わせをするためにJTSプログラムに飛びこみました。そのプログラムの中で気づいたのは、私が想像していた以上に「自己分離」が進んでいたことでした。

ここで言う「自己分離」とは、人生の中で「痛みと出会った時に、自分の生存のために、本来の自分にあるものを自分から切り離して、二度と痛みを味合わないように回避する」という意味を指します。

TMMの面白いところは、他人からみたら(本人でさえも)悩みや問題を抱えていなさそうな人ですら、痛みの回避行動で生きているということです。この痛みの回避行動で駆動している振る舞いの総称を、TMMでは生存適合OSと呼んでいます。

この「回避行動」というのが曲者で、たとえば、私自身もそれまで「自分の強み・個性」としてアイデンティティに感じていたものが、実は自己分離の末に生まれたものだと気づき衝撃を受けました。「人と違うことをしようとする・同じが嫌だ」という性格は、実は「本当はみんなと同じになりたかった(でもできなかった) 痛みから逃れるために「人と違ってもいい、むしろ、違うことがいいんだ!」という信念と克服行動を生み出していたという構造だったのです。(私の痛みは他にもいくつかありますが、ザ・メンタルモデル的には「ひとりぼっちモデル」が一番強いようです。)

由佐さんは、生存適合OSの呪縛から抜け出すために、痛みや無自覚な信念が引き起こす構造を知り「あるもの(痛み、信念、回避行動)があるんだね」と認めることが必要だと言っています。それらが「いい・悪い」とレッテルをつけるのではなく存在そのものを認めてあげることです。そうすることで、自分の行動を俯瞰的に見ることができるようになり、無意識ではなく意識的に行動の選択ができます。

由佐さんは、回避したくなる痛みは、自分がありたい世界の願いにつながる糸口であるとも言っています。つまり「痛み」とは「あるはずのものがない」痛みであり、自分が欲しかった「あるはずのものがある世界」を作り出していくことが、その人の願いだととらえます。

身体的な痛みもそうですが、痛みとはフィードバックであり、その痛みの奥の意味を読み解かなければ、人は痛みから逃げるか、無視するか、克服することしかできません。「いのちの願い」の存在を痛みが教えてくれていると考えれば、痛みを無視したりなかったことにするのでなく、痛みの存在を味わい、その奥にある、本来自分が望んでいた世界に向かう、という由佐さんの提唱する未来像に共感します。

TMMWのワークは、無自覚なまま人生を駆動している自分の仕組みを知る入り口と考えています。

また、そんな深刻にならなくても、自分の無意識の行動がどのように生まれているのかを知ることができると「そうだったのか!」という大発見です。そして、それまで自分を守ってきてくれた生存適合OSに「これまでありがとう、そしてこれからは自分で道を歩いて行くよ、さよなら」が言えるようになるんじゃないかと感じてます。

どうやるの?

読書会は、本を読み、ワークを行い、内容や疑問点、感想を分かち合う、という流れで進めていく予定です。

誰かの悩みを聞いて、誰かが解決するということはありません。ひたすらワークを通じて「自分を観ていく」ことを、一人ではなく、皆で一緒にやっていくということを繰り返します。私自身も、改めてワークを進めながら再度自己の分離を見ていくことにします。

TMMWに収められている12のワークは、きっちりやるのが目的ではなく、ワークを通じて自分の内面に起きたことを感じ取ることが大事だと述べられています。「このワークブックの使い方」というパートで次のようなことが書かれています。

このワークブックの説明として書いてあることも、鵜呑みにせずに、本当にそうなのかな?と疑ってかかってください。そして日常の自分の体験の中でそれを検証してみてください。書いてあることに合意する必要も、同意する必要もありません。自分の中に起きた洞察だけが自分にとっての真実を教えてくれています。常に外側にあるどんな正しさよりも、あなたにとっての真実の方が大切なのです。

「きっちり・正しくやろう」と考えるのでなく、疑問点や納得いかない点があってもいいのでやってみて、その結果を日常で自分の内面で検証し続けるということです。

ではワークを他の人とわかちあうことの意味はなんだろう?と考えてみると、自分だけでなく他者を知ることで、人間に対しての理解が深まるという点につきます。それぞれの人が抱えている不安、怖れに敏感になり、他者そして最も身近な自分を受容することに近づくと考えています。

大切なことは「感じること」です。頭で考えるのでなく、身体で感じることです。

進め方は、ひとまず上記のように仮置しています。この後どのように変わるかわかりませんが、何が起きてもいい、どんな体験があってもいい、そういうスタンスで、この読書会を開催していく予定です。

最後に

自己分離の統合について本気で学びたいのであれば、私のように由佐さんらの講座に参加するのが一番近道だと思います。

現在は、JTSプログラムは構成が変わって、以前のTMMWにあたるJTSプログラムは、本書をベースにしたラーニングサークルという講座になっています。

ラーニングサークルでは、TMMWのワークを由佐さんらと共に作り上げた三好さん、鈴木さんらが中心となって開催しています。私も受講の際に二人にお世話になりましたので、本読書会を通じて興味を持たれた方、より深めたい方は参加するのをお勧めします。

ラーニングサークルはすぐに満席になってしまうので、その前に自分なりにTMMWワークしておくのが良いと思います。その一つの手段として、本読書会が役に立てば幸いです。

読書会は以下になります。

https://thementalmodel.connpass.com/event/232132/

皆さんの参加をお待ちしています。

土日はいい天気だったのだけど家で畑の片付け

土日はいい天気だったのだけど家で畑の片付け
土日はいい天気だったのだけど家で畑の片付け
土日はいい天気だったのだけど家で畑の片付け

天気が良く山やガサガサに行きたかったがぐっと堪えて庭の畑の片付け。

今年はツユクサが大繁茂して大変だったが、なんとかスッキリさせた。

冬野菜の準備も着々と。でも写真はキクイモと生き物ばかりだなぁ。

畝のかたちも若干変えた。曼荼羅ガーデンβバージョン?

具象と抽象と身体知と

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ふと、次のような絵が浮かんだのでメモ。

こんなつぶやきをメモった後にひらめいた。

https://www.tkskkd.com/2021/100205617

思えば、具体の範囲と、抽象度の高さに加えて、身体知度(=知の質)という点もこだわりたいということに気づいた。

これらを3つの軸にすると次のような図になる。

具体の範囲は、具体的に知ってる領域のこと。これはその人の人生経験や他社の経験などの見聞に依存する。

抽象度は、具体を抽象化して考えられるかどうかのこと。抽象度を上げると、対象となる具体の範囲は広がるが、実際に具体に適用しているかは別になる。

最後に身体知度は「知の質」とそのまま表現したほうがいいのかとも思ったけど、あえて身体知の度合いとしてみた。これは本や他者の話などの外部化された知識(=形式知)により得たものであり、反対に身体知は実体験に基づいた身体に刻まれた知のこと。暗黙知と言ってもよいのだけど、身体に刻まれているという点を重視したいので身体知としてみた。

これらの3つの軸をできる限り増やしたいのが自分の欲求なんだなぁということに気づいた。そして他者と話をして知を共有する時には、集団としてこの立方体の体積を増やしたり、構築した立方体の中を自由に行き来できる範囲が重要なのではないかなぁ?

この立方体をknowledge cube(知の立方体)と呼ぼう。

今年の学びはツユクサの勢い

今年の学びはツユクサの勢い

昨年から庭の菜園で増え始めたツユクサ。食べれるし下草として保湿してくれるからそれほど気にしてなかったけど、今年は軽々2mくらいに伸びてつる植物並みに上がってきてジャングル化してコントロールできなかった。来年は気をつけねば。。。生成力はすごいんだけどなー。

クサネムと勘違いしていた

クサネムと勘違いしていた
クサネムと勘違いしていた

ずっとクサネムだと思っていたがある時裏を見たらこれはコミカンソウではないかと気づいた。葉っぱはマメ科っぽいんだけどなー。不思議。